いい感じで始まった日本による台湾支配。1945年の日本敗戦にともなって
その支配が終息するまで19人の総督が任命されました。彼らは手法は違いま
したが一様に台湾の治安維持、基盤整備、衛生改善、教育普及、産業開発に
心血を注ぎ、現在の台湾の基礎を作ったと言ってもオーバーではないようで
す。
例えば、第4代総督児玉源太郎(1898年−1906年在任)は台湾の当時の耕
作地を倍増させることに成功しました。当時、台湾は大地主と小作農が耕作
地を二重所有するといったいい加減な制度上の問題に加え、村どうしの決闘
で、その耕作地が勝利した村にそっくり奪われるといった戦国時代さながら
の無法状態でもありました。児玉とその部下後藤民生局長は、大地主から
耕作地の所有権を、日本本国で公債まで発行して買い上げました。その上で
耕作地は小作農の単一所有権として認め、小作農の自立を助けました。また
中国本土人が隠し耕作地として搾取していた土地を摘発し、台湾小作農に開
放しました。また、もちろん集団での決闘、争いごとは一切が禁じられまし
た。このような施策が台湾小作農に安定感と安心を与え、耕作地は積極的に
開墾され、その面積を倍増させたようです。ちなみに小作農に対する地租は
5%。日本本土の25.5%と比較するとかなりの優遇措置でした。参考ま
でに当時の朝鮮小作農に対する地租はわずか3.9%と破格の優遇を受けて
いました。
交通手段である鉄道も当時ひどいものでした。汽車を出発させるには50人
ほどもの人が後から押して出発させなければならない頼りないものでした。
当時・・・
後押し汽車
・・・とバカにされるものでした。初代総督樺山資紀(1895年−1896年在
任)は、臨時台湾鉄道隊を組織、風土病と戦いながら少しずつしっかりとし
た鉄道を完成させていきました。しかし、当初300人の隊員のうち、健康な
状態で本国へ帰国できたのは半分にも満たず、明治32年までの死者は241人
にも上りました。しかし当時の日本人は強靭な使命感で鉄道を完成させてい
きました。明治28年、台湾の割譲を受けた時点での鉄道総延長は106.7
kmでしたが、日本支配が進んだ大正4年での総延長は実に1604kmに
まで伸びていました。
また、明治33年当時、17万人もいたアヘン中毒者を昭和14年にはわずか
500人にまで減らすことに成功しています。これは・・・
台湾総督府製薬所
・・・というアヘン製造工場を官営し、吸引者は一代限りの特許制にし、
つくるのも、吸うのも台湾総督府で完全コントロールすることにしました。
そして少しずつアヘンの普及を減少させていくというシナリオでアヘン撲滅
に成功したのでした。また、アヘンの専売で得た利潤はペスト、腸チフス、
台湾熱とよばれるマラリア、赤痢の撲滅に投資され、疫病を激減させること
にも成功したのです。
これらはほんの一例ですが、歴代の総督たちは・・・
日台一如
・・・日本と台湾は一つだ、という信念のもとに台湾の近代化に精力を注い
だのでした。
ただ、当時の日本人たちが「台湾人にとってもきっといいことだ」と信じ
た、そうした日本化の推進が今日、「侵略の証拠」となっているのは皮肉な
ことだと思います。ただ、いいわけがましく言うと、悪名高き「皇民化運
動」の象徴、創氏改名も決して強制ではなく、住民の自由申告でした。
中国本土が台湾に行った「賜姓」は漢人の名前に変更させられるだけでな
く、先祖の戸籍まで塗り替えらされるという徹底したものです。
「あっちの方がもっと悪いじゃん」ってなことを言ってもしかたのないこ
とです。でも、当時は同化政策が今以上にあたりまえのように「あった」と
いうことですよね。最近、もう靖国神社の問題も下火になっちゃったけど、
日本が起こした戦争の問題を、「日本が悪かった」と卑屈になるだけじゃな
く、関連諸国の抱えていた問題、思惑などを分析し、日本の行った功績と
犯罪行為を冷静に仕分けして、総括することが大切だと思います。ただ、卑
屈になったり、強気になったりするだけでは、いつまでたっても中国や韓国
とよい関係を結べるわけもなく、最悪、またしても同じあやまちさえ起こす
可能性があると思います。
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