2006年09月02日

君が代〜その1

 日本の国歌は「君が代」です。

     君が代は 千代に八千代に さざれ石の

                巌となりて 苔のむすまで

・・・ですね。君は天皇を指します。さざれ石とは小石のこと。天皇の世は

千年も万年も続き、それは小石が大きな岩となって、さらにその岩に苔がむ

すほどにも続くように、というような意です。実は日本国歌とは天皇崇拝の

歌なんですね。天皇の世ということを取り沙汰すると、国民主権っていう話

とからんで、「どうなんだ?」って、ややこしくなります。基本的に象徴天

皇ってことで、天皇は日本人の精神の拠り所だ、とするのが憲法の主旨のよ

うなので、やはり日本人精神の拠り所となる国歌が「君が代」でも問題ない

のかなぁ、そういう意味では。

 で、それはそれとして、これにはもと歌があるのです。「古今和歌集」に

     わが君は 千代に八千代に さざれ石の 

                   巌となりて 苔のむすまで

・・・とあるんですねぇ。そう、初句の「わが君は」が違ってるんですね。

「わが君は」とは「あなたは」という意味です。となると、この歌は、千年

でも万年でもあなたには長生きしていただきたいものです、って意味になり

ます。実際、この歌は詠み人知らずなんですが、賀歌(がのうた)として取

り扱われているんです。賀歌は文字通り祝いの席で歌うものなので、お誕生

日会で「ハッピーバースディ」を歌うようなものだったんですね。

 ところが、「和漢朗詠集」1228年の記述では、「君が代」となっていま

す。いつのまに・・・。この頃の「君が代」は君主をさしています。君主の

治世がいつまでも続きますように、という祝いの歌になったわけですね。

そして、その君主は、明治をもって天皇になったというわけです。

 なるほど・・・君が代の歌詞はカバーバージョンだったんだ。


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2006年08月31日

台湾と日本〜その3

 いい感じで始まった日本による台湾支配。1945年の日本敗戦にともなって

その支配が終息するまで19人の総督が任命されました。彼らは手法は違いま

したが一様に台湾の治安維持、基盤整備、衛生改善、教育普及、産業開発に

心血を注ぎ、現在の台湾の基礎を作ったと言ってもオーバーではないようで

す。

 例えば、第4代総督児玉源太郎(1898年−1906年在任)は台湾の当時の耕

作地を倍増させることに成功しました。当時、台湾は大地主と小作農が耕作

地を二重所有するといったいい加減な制度上の問題に加え、村どうしの決闘

で、その耕作地が勝利した村にそっくり奪われるといった戦国時代さながら

の無法状態でもありました。児玉とその部下後藤民生局長は、大地主から

耕作地の所有権を、日本本国で公債まで発行して買い上げました。その上で

耕作地は小作農の単一所有権として認め、小作農の自立を助けました。また

中国本土人が隠し耕作地として搾取していた土地を摘発し、台湾小作農に開

放しました。また、もちろん集団での決闘、争いごとは一切が禁じられまし

た。このような施策が台湾小作農に安定感と安心を与え、耕作地は積極的に

開墾され、その面積を倍増させたようです。ちなみに小作農に対する地租は

5%。日本本土の25.5%と比較するとかなりの優遇措置でした。参考ま

でに当時の朝鮮小作農に対する地租はわずか3.9%と破格の優遇を受けて

いました。

 交通手段である鉄道も当時ひどいものでした。汽車を出発させるには50人

ほどもの人が後から押して出発させなければならない頼りないものでした。

当時・・・

               後押し汽車

 ・・・とバカにされるものでした。初代総督樺山資紀(1895年−1896年在

任)は、臨時台湾鉄道隊を組織、風土病と戦いながら少しずつしっかりとし

た鉄道を完成させていきました。しかし、当初300人の隊員のうち、健康な

状態で本国へ帰国できたのは半分にも満たず、明治32年までの死者は241人

にも上りました。しかし当時の日本人は強靭な使命感で鉄道を完成させてい

きました。明治28年、台湾の割譲を受けた時点での鉄道総延長は106.7

kmでしたが、日本支配が進んだ大正4年での総延長は実に1604kmに

まで伸びていました。

 また、明治33年当時、17万人もいたアヘン中毒者を昭和14年にはわずか

500人にまで減らすことに成功しています。これは・・・

             台湾総督府製薬所

・・・というアヘン製造工場を官営し、吸引者は一代限りの特許制にし、

つくるのも、吸うのも台湾総督府で完全コントロールすることにしました。

そして少しずつアヘンの普及を減少させていくというシナリオでアヘン撲滅

に成功したのでした。また、アヘンの専売で得た利潤はペスト、腸チフス、

台湾熱とよばれるマラリア、赤痢の撲滅に投資され、疫病を激減させること

にも成功したのです。

 これらはほんの一例ですが、歴代の総督たちは・・・

                日台一如

・・・日本と台湾は一つだ、という信念のもとに台湾の近代化に精力を注い

だのでした。

 ただ、当時の日本人たちが「台湾人にとってもきっといいことだ」と信じ

た、そうした日本化の推進が今日、「侵略の証拠」となっているのは皮肉な

ことだと思います。ただ、いいわけがましく言うと、悪名高き「皇民化運

動」の象徴、創氏改名も決して強制ではなく、住民の自由申告でした。

中国本土が台湾に行った「賜姓」は漢人の名前に変更させられるだけでな

く、先祖の戸籍まで塗り替えらされるという徹底したものです。

 「あっちの方がもっと悪いじゃん」ってなことを言ってもしかたのないこ

とです。でも、当時は同化政策が今以上にあたりまえのように「あった」と

いうことですよね。最近、もう靖国神社の問題も下火になっちゃったけど、

日本が起こした戦争の問題を、「日本が悪かった」と卑屈になるだけじゃな

く、関連諸国の抱えていた問題、思惑などを分析し、日本の行った功績と

犯罪行為を冷静に仕分けして、総括することが大切だと思います。ただ、卑

屈になったり、強気になったりするだけでは、いつまでたっても中国や韓国

とよい関係を結べるわけもなく、最悪、またしても同じあやまちさえ起こす

可能性があると思います。


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2006年08月26日

台湾と日本〜その2

 清国から日本に割譲された台湾。さて、その台湾の人々と日本人との初め

ての接触はどんなものであったのでしょう?

 まず、本国から捨てられた台湾では、有力者がこぞって日本への割譲に反

対しました。そしてよく議論もせずに、とりあえずということで、「台湾民

主国」をあわてて建国します。しかし、とにかくいいかげんな建国だったの

で、台湾北部に上陸した日本軍に沿岸守備隊が破れると、もうそれだけで大

恐慌に陥ります。「台湾民主国」の幹部たちは、恥も外聞もなく、こぞって

我先にと大陸へ逃げ帰ってしまう始末でした。当時、新政府首都=台北に

は2万人の守備兵があり、北方には清国兵5万人が駐屯したままでした。対

する日本軍上陸部隊はわずか500人だったので冷静に迎撃すれば、十分撃

退でき、また歴史も変わっていたのかもしれません。しかし指導者のいない

守備隊は日本軍に抵抗するどころか、暴徒と化して、守るべき台北の市民に

その銃口を向けます。金銀をあさり、民家に放火し、女性には暴行をはたら

く、といった具合で台北市中はまさに地獄絵図となるのです。当時駐在して

いたアメリカ人記者ダビットソンは「台湾島の過去及び現在」という書の中

で・・・

      財貨を残す者は、総じて夜間に恐ろしき怒号を為す

      残忍な群れに略奪された

・・・と記しています。この惨状については、清国人姚錫光の「東方兵事記

略」や洪棄父の「台湾戦記」にも同様の記載があります。 

 たまりかねた台北市民や前述のダビットソンは日本軍に救援を求めます。

要請を受けた日本軍は直ちに台北に急行し、治安を回復します。明治時代の

日本軍は厳格な軍律によって統制されており、台北市民に暴行を働くことは

一切なかったため、台北市民もたちまち日本軍に順応したようです。暴徒を

一掃してくれた救世主として大歓迎を受けた日本軍。最高にラッキーな展開

でしたが、ともあれ、日本と台湾の人々とは、幸先のよいスタートがきれた

のでした。

 うーむ、出会いには運も大切なんですねぇ。


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2006年08月24日

台湾と日本〜その1

 台湾って国がありますね。微妙な立場の国で、日本も中国外交をめぐっ

て、難しい舵取りのタネになってる国ですね。朝鮮半島同様、日本に支配さ

れていた時期があって・・・でも今の韓国、北朝鮮のように反日感情はな

く、むしろ親日派が多い国だといわれてます。そんな台湾と日本の歴史をち

ょっとつまんでみたいと思います。

 台湾は17世紀初頭にオランダの支配を受けたのを皮切りに、清朝に抵抗し

た鄭成功(1624年−1662年)の政権、清朝の支配、そして明治の日本の支配

と、短期間に次々と支配者が変わった国でした。

 日清戦争(1894年−1895年)に勝利した日本が清朝から割譲を受けたのが

日本による台湾支配の始まりとなります。

 支配にあたっては2つの案が示されます。後に「平民宰相」と呼ばれる

原敬(1856年−1921年)外務省通産局長は「台湾問題二案」として次のよう

に提案したといいます・・・

   甲案 台湾を植民地、すなわちコロニーと見なすこと

   乙案 台湾は内地と多少制度を異にするも、これを植民地とは
    
     見なさざること

・・・甲案は帝国主義的な考えの人に賛同者が多く、乙案は自由主義的な人

に賛同者が多かったようです。1万円札の福沢諭吉(1835年−1901年)も

イギリスがインドを支配したように、民族の風習はそのままに利益だけを搾

取する方法と、白人がアメリカを開発したように、現地を文明開化させ、同

化させる方法がある、と整理しています。

 つまり当時、人権を尊重するような知識人も、軍国主義者が推す植民地化

で現地を搾取するのはよくなくて、相手の国を日本に同化させることがよい

、と考えていたんですね。福沢の言い方もなんかそんな風な感じをにじませ

ていますよね。アメリカができたのもそんな感じだし、むしろ相手にとって

もいいことだと、当時の人道的なインテリたちは考えていたようです。

 結局、はっきりと決定されるわけではなく、世論もただなんとなく乙案だ

ろう、というようなまま台湾を支配していくようになります。

 今日では、相手の風俗、風習を抹殺し、日本化したことは相手の人権を認

めないひどいこととして認識されていますが、当時はむしろ、多くの人が

「いいこと」として考えていたんですね。

 そんな世論が背景にあったのなら、前の戦争ってA級戦犯と呼ばれるよう

な一部の指導者が引き起こしたものじゃなくて、当時の日本国民すべてに責

任があったように思えてくるんですが・・・。


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2006年08月22日

天上天下・・・お釈迦さまの最初の言葉

              天上天下唯我独尊

・・・お釈迦様(生没不詳 本名ゴータマ=シッダルータ)は生まれると、

すぐに立って7歩、歩くと、こういったということです。言葉の響きから、

なんか傲慢・・・って感じますが、実は、私の命はこの世にたった一つしか

ない非常に尊いものです。みなさんの命だってそうなんですよ、って命の大

切さを説く言葉なんです。で・・・

              三界皆苦我当安之

・・・と続きます。私はみなさんの持つあらゆる苦しみを救いたいのです、

と。これは「修行本起経」という仏典に記載された内容ですが、仏典によっ

ていろいろと別のことをしゃべったってなっていて流派の違いがあるようで

す。

 ちなみにお釈迦様の本名ゴータマは「最高の牛」、シッダルータは「使命

を果たした」という意味だそうです。牛って・・・ってバカにしてはいけま

せん。牛は最も聖なる生き物とされていましたから、「使命を果たす最高の

者」という意味になるんですね。

 それにしても生まれてすぐにこんな漢字を知ってたことに驚いた。さすが

お釈迦様だ。ボクは学生時代、ずっと漢字で苦しんだなぁ。昨日のカルピス

といい、昔のことが懐かしくてしかたない。なんかおじいさんみたいだ。


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posted by t.ueda at 05:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月21日

懐かしいカルピスの醍醐味

 昨日、カルピスを飲む機会がありました(子どものとき以来だ)。暑い時

に、冷たいカルピスの喉ごしはなんともいえないものでした。また子どもの

頃の郷愁にも誘われ、とても美味しかったなぁ。

 さて、このカルピスは1917年、三島海雲って人によって創業されたカルピ

ス社の製品で、三島氏がモンゴルに行っていたときに地元で覚えた発酵乳を

製品化したものです。日本で初めてどころか世界で初めての乳酸菌飲料製

品ってことになります。

 カルピスって商品名は、カルシウムとサルピスの合成語とのことです。サ

ルピスはサンスクリット語で・・・

            最高の味わい=醍醐味

・・・を意味します。で、醍醐味ってよく「スポーツ観戦の醍醐味」とか、

「旅行の醍醐味」とかって使い方をしますけど、実は食べ物のことなんです

ね。はっきりとは判明してないそうですが、乳製品であることは間違いない

ようです。チーズともヨーグルトとも言われています。牛乳を発酵させて

いくんですが、その段階が次のとおり。

         乳味−酪味−生酥味−熟酥味−醍醐味

まさに最高の発酵状態になって、最高の味わいに熟成されてるってことです

ね。でもすごいニオイになってそうだ・・・。

 またこの過程から、転じて仏教では「最高の悟り=涅槃」を醍醐味とも。

 なるほど・・・いましばらくの残暑を、カルシウムも入って「骨太になっ

た醍醐味」カルピスで乗り切ろうかな。


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posted by t.ueda at 05:25| Comment(2) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月20日

直木賞の「もと」になった人が書いた剣豪のこきおろし

 文学の世界で「直木賞」といえば「芥川賞」と並び称される権威の高いも

のですね。小説家で、文芸春秋社の菊池寛(1888年−1948年)が1935年に

「芥川賞」とあわせ創設したもので、正式には「直木三十五賞(なおきさん

じゅうごしょう)」といいます。友人である直木三十五(1891年−1934年)

を讃えて作ったものです。
 
 その直木三十五、本名は植村宗一っていいます。もうおわかりですね。

「直木」は「植村」の「植」の文字を「木」と「直」に分解し、並び変えた

ものなんですね。「三十五」は35歳という年齢をあらわしたものです。もの

書きを始めた31歳からのペンネームでその時は「直木三十一」。以後、三十

二、三十三・・・と毎年数を増やしていきました。が、三十五で止まりまし

た。代表作に「黄門廻国記」があります。今のテレビドラマ「水戸黄門」の

草分けですね。

 さて、その直木の書に「剣法夜話」というのがあります。剣の達人など

に関する記述をしたものですが、例えば超メジャー剣豪宮本武蔵のことなど

は・・・

   宮本武蔵は晩年はえらくなったが「兵法三十五ケ条」のような

   未熟な著書をして人に畷われているし、佐々木小次郎のほか

   当時江戸の名剣客と少しも試合をしていない。剣法上の創作的

   態度において、この人も上泉信綱に劣る。書き残したものを見

   ても徹底しないで、兵法のつまらんことを説いたりしている。

   ほかにインテリ武人がいないから目立ったが「五輪書」など

   空鈍の「天狗芸術論」に劣っている

・・・と、いやはやボロクソです。何を根拠にこれほど自信たっぷりに言い

切るのかがわかりにくいですね。もう少し具体的事例をあげて、「こきおろ

し」てほしかったなぁ。そもそも直木自身、生死を賭けた実戦を経験して

いないので、そのあたりの説得力が乏しいように思いますけど。

 しまった・・・こんなこと書くと直木賞もらえなくなるかなぁ(笑)


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2006年08月19日

細川幽斎、古今集を伝授

 信長、秀吉、家康などに仕えた戦国武将、細川幽斎(1534年−1610年。名

は藤孝)。この人はスゴ腕の武将、謀略家としてよく知られる人で、ドラマ

や小説にもよく登場してます。戦国ものではメジャーな脇役の一人ですね。

 ところが、足利将軍家の落胤との説があったり、そうでなくとも将軍家に

仕えていたので、京の風流な文化にも精通した人でした。特に和歌の分野で

は歌集「衆妙集」や解説書「百人一首抄」「詠歌大概抄」「細川幽斎聞書全

集」を記すなど、相当な達人でした。

 さて、その幽斎が1600年の関が原合戦に巻き込まれ、自分の城、田辺城

を包囲され、死を覚悟したときに次のように詠みます・・・

      いにしへも 今も変わらぬ 世の中に

             心のたねを残す ことのは

 今も昔もなんの変わりもなく過ぎていく世の中。そんな世の中に、特に

歌の道だけは残したいと思うな、との意。これには・・・

    慶長五年七月二十七日丹波国籠城せし時、古今集証明の状、

    式部卿智仁(としひと)親王へ奉るとて

・・・と書き添えられています。つまり敵に包囲され、私はもうダメかもし

れない。だから歌道を志す者としては最も尊重される「古今集」の解釈を

伝授しておきたい、ということなのでしょう。で古今集の解説書とともに

交流のあった智仁親王に送ったというわけですね。なんか大層だな、と思い
 
がちですが、当時、古今集の解説は秘伝とされており、師匠が弟子にもった

いつけて伝授するのが普通でした。こういったことを学識用語で「古今伝

授」というそうです。本当に大層に大層にされていたようなので、結局、

危機を脱した幽斎、「しまった。古今伝授早かったかな」と思ったんじゃ

ないでしょうか(笑)

 ちなみにその「古今集」の冒頭に・・・

   やまと歌は人の心を種として、よろずの言の葉とぞなれりける

   世の中にある人ことわざしげきものなれば

・・・とあるのですが、幽斎の歌はこの冒頭部分をふまえてのかけことば

のようになってるんですね。今死ぬかもしれないって時におちゃめな話で

す。


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2006年08月18日

与謝野鉄幹、晶子に押しかけられ悩む

 与謝野鉄幹(1873年−1935年 本名寛)といえば、まず与謝野晶子(1878

年−1942年 本名しょう)の夫って思い浮かびますよね。夫婦で歌人やって

た人だ・・・って。でも、もともと鉄幹には滝野(たきの)って妻がいたん

です。そこに晶子に上京されて、押しかけられて、鉄幹は、たちまちピンチ

ってことに。そこで一首・・・

    われ男(お)の子 意気の子名の子 つるぎの子

            詩(うた)の子恋の子 ああもだえの子

・・・オレは男だ。意気に感じ、名誉を重んじ、男子の象徴である剣を重ん

じるものである。しかし一方で詩歌を愛し、恋を大切に思う。ああ、なんと

悩ましいことだ、の意。男の責任感と恋に揺れる心がそのまま吐き出された

一首なんでしょうね。

 歌の構造としては綿密に計算されているようです。まず、名詞だけで構成

するという特異な形。前半の硬派な部分と後半の軟派な部分の対比、そして

「だからもだえちゃうんだ」という結論への集約。2句目は4・3、4句目

は逆に3・4の切れで配列させ、全体に気持ちのよいリズム感を生じさせて

いること。かなり凝って作られているようです。

 ・・・って歌詠んでる場合だったのだろうか?


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2006年08月17日

紫式部の父、泣き落としで栄転

 紫式部が時の権力者、藤原道長とただならぬ関係にあり、いろいろと優遇

されていたという話を、先般しましたが、式部の父親もその恩恵を受けてい

たようです。

 鎌倉時代初期に源顕兼(1160年−1215年)によって書かれた説話集

「古事談」には次のようにしるされています。紫式部の父、藤原為時は、し

ばらく昇進が途絶えていた。ある日淡路守に昇進できたが、淡路は下国(当

時、任官先の国は「大国」「上国」「中国」「下国」の4段階にランク分け

されていて、下国は最もレベルが低かったようです)だったので、落胆した

為時は天皇に「申文」(自分をもっと昇進させてほしい、というような

要望書)を送った。その申文には・・・

       苦学寒夜 赤涙濡襟 除目後朝 蒼天在眼

・・・と添えられていた(一生懸命勉学にいそしむ寒い夜は、血の涙が襟

を濡らします。任官の辞令が出た翌朝の蒼い空は目にしみることですよ、

というような意味。夜と朝、赤と蒼が対比に使われていてイイ詩ということ

か?)。このすがるような申文を目にした道長は、すでに大国

越前への任官が決まっていた源国盛の辞令を取り消し、為時を越前守に任官

させた。国盛はあまりのくやしさに病気になってしまい、ついに死んでしま

った、と。

 つまり、紫式部の父親はしばらく昇進ができず、ようやく昇進話が来たと

思ったら、つまらない内容だったので、不満を陳情し、泣き落としで大国へ

栄転させてもらった、というようなことです。なんかイヤなタイプの人間

ですね。添えられていた漢詩の出来が評価されたということですが、根底に

は、道長の紫式部への特別扱いがあるように思いますね。
 
 ちなみに越前守の前の階級は式部丞。だから娘は紫「式部」というわけで

す。紫は源氏物語の主人公の一人「紫の上」からとったものと言われていま

す。

 しかし、世の中やっぱり人間関係なんだなぁ。


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